日本を描く、その想いから生まれた国産パステル

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パステルについて

顔料の色に、最も近い絵具

パステルとは色の素である顔料と、それを固める糊剤を練り合わせた「固形絵具」です。
一般的には顔料+パステルのボディを作る体質顔料(一般的には炭酸カルシウム)を、水溶性の固着剤(メディウム)で練って固められます。
固着剤の濃度と分量によって、ソフトパステル(軟質)とハードパステル(硬質)に分けられます。

つまり、パステルは顔料の色に最も近い固形の絵具ということになります。
クレヨンやオイルパステルと異なり油脂や蝋分を加えていないので、
顔料本来の持つ発色の美しさをダイレクトに表現できるのが、パステルの大きな特徴のひとつです。



パステルは色数が非常に多く、メーカーによっても異なりますが200〜500色もの色揃えがあります。
最も色数が多い時期は、フランスで1600色を超えたそうです。
ここまで色数が多い理由として、パステルは絵具と違ってパレット上で混色ができず、水や描画液で濃淡を調整することもできないため、
あらかじめメーカー側で多くの色を準備しておかないと、描き手の感性に合った色を選べないことが挙げられます。

顔料の微妙な調合や混練の加減ーそれらは季節による温度変化や、使われる材料も時代によっても変化するため、
職人の経験と磨かれてきた勘に頼るところが大きく、今もなお手作りで製造されています。
シンプルな製造方法がゆえに、パステルの発色や質感は、各メーカーの感性そのものが表現されているのではないでしょうか。



パステルはとても手軽な画材で、持ち運びが楽。水や油も用意せずにすぐ描くことができ、
色数が豊富で、なおかつ乾燥を待つ時間もいらないため、速写性に優れています。
指やスポンジでぼかすこともできます。一方で紙への定着力が弱いため、保存をするには定着剤のフィキサチーフなどをかける必要があります。

語源にはいくつかの説がありますがイタリア語で小さな塊を示すパスティーロ(pastello)、
フランス語で練り固めたものを意味するパット(pate)から派生したとされています。

パステルの普及と年表

17世紀中頃

ヨーロッパで、粉末の顔料を練り固める方法が考案されたことにより、様々な種類の色の塊を人工的に作り出すことができるようになりました。

18世紀

パステルの使い方は多くの作家によって研究を深め、様々な表現が生み出されます。
指や擦筆にパステルを塗りつけ、画面全体を薄く下塗りした上にタッチや線を描き、目立つところを描き重ねていく方法や、紙の上で色を混ぜ合わせ盛り上げながら描いていく方法など、パステル独自の軽やかな質感や繊細で柔らかな表現が賞賛されていったのです。

19世紀中頃

油絵具の品質向上により、一旦は衰退したパステルですが、1885年フランスで初めてパステル協会が発足、イギリスでも1899年に協会が発足しました。

19世紀後半頃

さらにパステルは広く普及していきます。この時代にはパステル画の代表的な画家としてドガ(1834〜1917)やルドン(1840〜1916)らが登場します。また、マネやルノワールなど印象派の画家たちもパステルを用いました。

王冠化学の始まり

今回取材させて頂いた「王冠化学工業所」は、大正8年に創業された日本で唯一のソフトパステル専門メーカーです。
創業されてから現在まで、ずっと京都にて製造されています。

従来のパステルセットだけでなく、京都風の色合いを演出した「京色パステル」の開発や
ワークショップなど、パステルを広く普及させるべく活動されています。

  • 左 山登盛寿さん / 右 山登大輔さん

王冠化学で製造されたソフトパステルは「ゴンドラパステル」と呼ばれ、
商標にもゴンドラをモチーフにしたデザインのエムブレムが用いられています。
それには、ある画家から贈られた一枚のパステル画が深く関わっています。

パステル画家 矢崎 千代二」と
「 王冠化学創業者
間 磯之助」

ゴンドラパステルが開発された背景には、この絵の作者であり、贈り主でもある「矢崎 千代二」という画家が深く関わっています。矢崎は世界中を歴游し、パステル画を描き続けた画家です。パステルの魅力を日本にも広め、パステル画を普及させたいと考えていました。そこでまず、国産の理想のパステルの製造を「間 磯之助」に依頼したことで、王冠化学工業所は創業されます。

矢崎は写生を重視しました。目に写るその瞬間を切り取るかのように、その場で描き上げていきます。表情が刻々と変化する風景を写しとることを「色の速写」とよびました。速写性に優れたパステルは、彼の感性とマッチした最適の画材だったのでしょう。しかし、当時使用していたパステルには、中間色が少ない・セット販売の輸入がゆえに一本買いができない・保存性や原料への不安など、多くの不満がありました。これらを解消するためにはパステルの国産化しかないと判断したのです。1919年、中国から一旦日本にもどった矢崎はその後、友人から間磯之助を紹介され、国産パステルの製造が動き出します。
ここでは、その歴史をたどっていきます。

パステル画家 矢崎 千代二

日本近代洋画のパステル画を牽引した矢崎千代二(1872~1947)は、今の神奈川県横須賀市に生まれる。奉公先で画才を認められ、15歳の時に画塾に入り、その後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)で黒田清輝に学んだ。白馬会会員となり、文展にも出展。1903(明治36)年にセントルイス万国博覧会の事務局員として渡米したことを契機に、アメリカから、ヨーロッパ諸国を歴游する。多くの油絵作品を描き、その展覧会を東京交詢社で行なった。1916(大正5)年、中国へ渡った頃からパステル画に傾倒していく。さらに、インド、ヨーロッパ、南洋諸島へと足を延ばし、その瞬間の風景を数多くのパステル画にのこした。後年には南米や南アフリカへと出かけ、開拓地の移民の姿を描いた。
終戦を北京で迎え、2年後に75歳で客死。戦中戦後の混乱期の北京でもパステル画を広め、没年にも、北京の弟子たちとパステル画展を開催している。生涯の大半を海外で過ごし、旅で出会う瞬間の風景を描きとめるため、パステルによる「色の速写」という手法を唱え、ひたすらに描くことに邁進した画家であった。

王冠化学工業所の創業

1919年矢崎千代二の依頼を受け、間磯之助は31歳の時に王冠化学工業所を創業しました。
その創業の地が京都であるわけは、京都には日本画作家が多いので胡粉などの顔料が入手しやすいなど、地の利を考えてということがあったそうです。以前の画材図録の記事「胡粉」の中で、胡粉製造の地である宇治の地形は水車や運搬の為の水路として非常に合っており、産業としてはとても良い立地条件だったというお話がありました。京都の土地柄が様々な画材を生み出してきました。

日本を描くために
生まれたパステル

日本の伝統色のパステルを製造する際、他者のラインナップでは暖色よりも寒色系統が少ない傾向にあるようですが、ゴンドラパステルにおいては「昔から緑が充実している」とのことで、GY(黄緑)が多いとされています。創業者の間磯之助は常々「日本人は青や赤に関しての意識が甘い。しかし緑と鼠色に対しての感度が高い。描く側の意識がそれらの色にあるのだから、それがそのままつくる側の意識になる」と言っていたそうです。
ヨーロッパのパステルでは日本の風景が描けない。日本の山や樹々が描ける、風土にあったパステルをつくってほしいというのが矢崎の想いでした。

日本画の岩絵具においても緑系の色はバリエーションが必要で、相当の手間と調整をかけます。パステルの製造においても、緑系の色に対する意識は特に強かったとされます。鼠色についても、ゴンドラ社では白と黒の2種類のみを無彩色として製造し、その間の灰色は意識して色味を加えています。以上のことから、ゴンドラパステルは日本人の繊細な色彩感覚に合わせた色揃えといえます。

ひとつひとつの色によって、
調合する顔料が違います。

他メーカーでは基本の色をベースに、白や別の色を混ぜて、グラデーション的に明度の段階をつくるケースが多いそうですが、実は、ゴンドラパステルにはベースとなる色はありません。1色ごとに調合する顔料が違います。多い時は9種類もの顔料を混ぜ合わせるものもあります。

創業者の間の長女、山登宣子さんは、父から教わった顔料調合をすべて書き留めていました。創業当時からの調合メモを受け継ぎつつ、長年の職人の感性と技術によって、単に当時の色の再現ではなく、現代のニーズに合わせた色を1色1色個別に製造していくのです。現製造者の山登盛寿さん曰く「色に対する強い思い入れは、祖父である間が絵描きだったからではないかと思う」ということでした。

顔料について

顔料は時代の流れに比例して、仕様が大きく変化してきました。たとえば昔レモンイエローという色には多量の鉛を使っていましたが、公害の影響で使用できなくなりました。現代の商品は安全を重視する傾向にあります。パステルひとつにしても「使用時にはマスクをして・・・」と文言を入れなければならないほどです。よって、人体への影響はできる限り抑えた物を使わないといけません。そのため色味が変わり、時代に応じたマイナーチェンジを積み重ねざるをえないということです。
顔料の素材や配合が変わっても、当時の色の強さをもったパステルを現代で製造する。そのために、山登さんは相当苦労をされたそうです。

糊剤について

顔料と同じように糊剤にも時代の流れに比例して、仕様が大きく変化してきました。昔はパステルをつくる糊剤には「ふのり」を使っていました。当時は、宣子さんのお母さんがふのりをたいて布で漉して作っていたとのことです。しかしカビが生えやすく、腐りやすいうえに不純物も多かったそうです。

パステルのサイズ

パステル1本の使い勝手について矢崎には考えがありました。当時のルフラン製のパステルは長さが7cm〜8cmもあり、さらに紙が巻いてありました。長いものをつかっても折って使いますし、紙はいずれ破ります。また、時にはパステルを折って、腹の部分でも描きます。長いものは価格も高くつく上に、作家によって使う色はだんだんと決まってきますから、補充ができれば短いものでよいのです。試行錯誤の末、現在のゴンドラパステルのサイズになりました。短いと強度が保てますし、紙を巻く必要がなく、描く人にとっては扱いやすいのです。

パステルができるまで

それでは実際に、パステルが出来上がるまでの流れを追っていきましょう。

1混練する

あらかじめ顔料と糊分を調合したものを、石臼で練っていきます。
下記の写真は石臼です。上部には顔料を練る為の機械が回っていきます。

練った後の状態です。ペースト状になっています。
混練が済んだら、下記のように木製の箱に詰めていきます。

石臼で練る理由

製造所が創設された当初から使われている石臼。表面がザラザラしていて、中が洗いにくいという難点がありますが、その分すりつぶしながら、練る性能は素晴らしいものがあります。さらに石臼だと摩擦熱が発生しないので、中の素材に影響を及ぼすことがないのです。
※ 胡粉を製造する際にも、石臼を使用されていました。ちなみにこの石臼、以前は魚肉をすりつぶし「かまぼこ」をつくるための加工用につかわれていました。

2乾燥させる

練った顔料は木の箱に入れ一度乾燥させます。
色によって乾燥スピードが違います。例えば黄色は早く、放っておくと固くなりやすいそうです。
外が固く、中は柔らかいのが理想の状態なんだとか。

次の工程でパステルの形を作っていくために、もう一度手で練り、形をまとめていきます。

3成形する

こちらの機械は、真ん中上部から圧力をかけ、先ほど練られた顔料を押し出すためのものです。

容器に顔料を詰めていき、機械にセットします。

すると容器の口から顔料が棒状に練り出されていきます。
まるで魚肉ソーセージのようです。

次から次へと出てくる棒状になった顔料を並べていきます。
さきほどの機械に入れる前の塊からは、約130~150本ほど作れるそうです。

工場の棚に眠る色のかけら

パステルにはたくさんの色数があります。それぞれの色を作るためには、
今までに製造された色と比較し、同じように色味を合わせていかないといけないのです。
そのテストピースは、工場の棚の中にどっさり眠っていました。箱の番号は色番号です。

大きさも疎らですが、このストックがあることで、パステルの色調は保たれているのです。
いわば顔料そのものの状態に近いので、変色といった心配もありません。

成形されたパステルを切り、ストーブにあてて乾かしたら、一旦工場にて、テストピースと塗り比べて、色味が同じかどうか確認してみます。

4もう一度乾燥させて、製品サイズにカットする

成形されたパステルを、次は2階の作業場へもっていきます。

パステルの長さは1種類です。金属のガイドを当てて切断していきます。
このときのパステルの状態が、粘りすぎても切る際に引っ張られるし、固すぎても崩れてしまうので、絶妙な状態といえます。

切断したパステルは一度乾かします。

出来上がったパステルは色番号ごとに箱に分けられ、保管されます。

5セットにする

王冠化学工業所さんは、全242色の中から、様々なパステルセットを展開されています。
どの色が足らない状態か、わかるようにメモが書いてあります。

あとがき

京都創業のパステルメーカー「王冠化学工業所」を訪ねました。お忙しい中取材に応じてくださり、ここに厚く御礼を申します。

色は混色すればするほど明度や彩度は落ちます。私の考えですが、色が濁りきらないギリギリのラインの色相を捉えることについて、日本人には独自の感性があるのではないかと思います。 絵具を混色していくと、色がドロドロに濁り思った通りの結果にならなかったという経験をおそらく誰しもがお持ちだと思います。しかしその経験こそが面白く、濁りもまた唯一無二の自分だけの色だと山登大輔さんは言います。

ゴンドラパステルのセットを見ると、実用的なだけでなく、桐箱に入っている様は、純粋に飾って置くだけでもお土産として十分成り立つものと考えます。実際に京都の様々なお土産屋さんに展開されています。画材店には、ほとんどが画材や額装など目的を持ったお客様が来られます。逆を言えば目的がなければ、なかなかお店に入り難いところもあります。例えば新たな商品展開として絵具の色数を増やしたとしても、それは絵を描く方々にしか伝わらず、広く一般に普及することは難しいのが現状です。

私たちは画材に携わるものとして、お客様がお店に来られるまでの、目に見えないハードルをもっと下げないといけないと思いました。王冠化学工業所さんは、誰でも純粋に彩色を楽しめるキットの草案や、描くだけでなく飾るだけでも楽しい商品、ワークショップ、海外旅行者に向けた情報展開など、様々な努力をされ続けています。

パステル一筋の長い歴史は、その都度現状に応じた企業の創意工夫でこれからも続いていくことでしょう。

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